文月メイ「ママ」という歌に出合いました。
この歌を聴きながら、以前書いた投稿( それでも子供は母親を愛していた )を思い出しました。
文月メイ「ママ」という歌に出合いました。
この歌を聴きながら、以前書いた投稿( それでも子供は母親を愛していた )を思い出しました。
子供の頃、「人生ゲーム」で遊んで、ものすごく楽しかった思い出があります。
ゲームの説明は、リンク先の情報を参考にして下さい。
で、最近、我が家でも、子供たちが人生ゲームにはまっています。
特に、小学校1年の弟の方がはまっていて、毎日といっていいほど、「人生ゲームしよう!」とせがまれます。
ところがはじめると、ゲームの調子の良いときはいいのですが、自分の思うように進まないと
・・・・・ 他にも色々なイベントがテンコ盛りです ・・・・・
何か嫌な出来事のマスに止まるたびに、そんな感じに、大泣きします。
寝転がったり、周りの誰かを叩いたりして、大泣きします。
悲しさや悔しさの心からの表現です。
逆に、良い出来事のときは、本当に心の底から喜びます。
喜びを全身で表します。
上の子供(小学校3年)も、ゲームを楽しがりはしますが、下の子ほどではありません。
で、子供が嫌なマスに止まって大泣きしているときは、
といった感じに対応していました。
でも、その内だんだん面倒になってきて、「ゲームなんだからそんなに真剣にならなくてもいいんだよ」と言っていました。
そして、その言葉を言いながら、ある禅の本に書いてあった文章を思い出し、その意味が理解できたような気がしました。
これまで、第二次反抗期は、人が自立する時期だと考えてきましたが、ここで、もう少し詳しく考えてみようと思います。
「あなたにもある心を回復する機能」では、次のように記述しています。
第二次反抗期とは
子供たちは、親が提示した枠組みを世界のルールと思い込み暮らす中でも、様々な経験をしたり、知能の発達や新たな情報を蓄積したりすることによって、客観的に状況を把握し論理的に考える能力を身につけていきます。そして、その能力があるレベルを超えたとき、再び、親が提示している枠組みや社会が提示している枠組みを検証し、自分の枠組みとして再構築しようとする時期が訪れます。これに直面した親は、第一次反抗期と同様に、「子供が自分に逆らっている」と錯覚してしまうのです。
これが、第二次反抗期と呼ばれている時期に起こることです。つまり、『子供の枠組みと親の枠組みとのせめぎあい』、『子供の枠組みと社会や時代の枠組みとのせめぎあい』ということなのです。(再構築というと簡単そうですが、それまでの価値観が崩壊し、新たな枠組みを一から作っていくようなことをするので、精神的にはかなりの苦痛が伴うことがあることも想像されます。)
これは、巣立ちを起こさせるために、人類に備わっている仕組みなのかもしれないと思います。動物であれば、ここで、無事巣立つことができるのでしょうが、現代の人間社会は複雑化しているため、この時期の巣立ちが基本的には許されない構造になっています。
『あなたにもある心を回復する機能』 (P.209) より
「自立する時期と考えるには、第一次反抗期はまだ早い」という思い込みから、第二次反抗期だけに焦点を当てた結果、このような解釈になりました。
テレビで、小学生が自殺したというニュースが報道されるとき、しばしば校長の記者会見の状況が映し出されます。
大抵の場合、「いじめは無かった」と主張します。
このコメントを聞くと、わいわい騒ぎたがるマスコミは、なぜかわかりませんが、その言葉に納得して騒ぎ立てなくなります。(余談ですが、「スクールカウンセラーを配置した」なんて言葉にも弱いようです・・・)
そんなロジックが、マスコミを絡めた世界では成立しているようです。
これって、大人に便利な理屈だということ、分かりますか?
特に学校関係者にとっての・・・。
テレビの報道ワイドショーを見ていると、こんな話をよく耳にします。
この問いかけが正しいと思うと、本質を見失ってしまいます。
正しい問いかけは、
です。
そして、その次の問いが、
です。
これをごちゃまぜにしていると、「虐待かしつけか見極めることは難しい」ということになるのです。